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紡績王と呼ばれた男 知られざる偉人「第十世伊藤伝七翁」

明治の偉人の志を受け継ぎ、新たな未来へ

わが国最大の紡績会社 東洋紡績の創始者であり、「紡績王」と呼ばれた先駆的な実業家 第十世伊藤伝七(1832-1924)。
1880年(明治29年)に輸入紡績機械の払い下げを受け操業を開始し、1886年(明治19年)には、渋沢栄一の支援を受け三重紡績株式会社を設立。当時、国の手厚い保護育成にもかかわらず国も民間もほとんどが失敗する中、それまで麻糸製で高価だった漁網を綿糸で製造することに成功し、あわせて品質の良いインド綿を率先して輸入。
優れた経営手腕により三重紡績を大阪紡績を上回る大工場に育て上げ、1914年(大正3年)渋沢栄一と協議の上大阪紡績と合併。
わが国最大の紡績会社「東洋紡績(現東洋紡株式会社)」を設立しました。

また、政界活動でも活躍し、1906年(明治39年)に緑綬褒章受賞、1918年(大正7年)には貴族院多額納税者議員に当選。さらに、私財を投じて三岐鉄道の基礎となる日本横断鉄道を計画、四郷村役場(現在の四郷郷土資料館)を建築して寄贈するなど、地域の発展に大いに貢献し、中京財界の重鎮として君臨しました。

明治・大正の政財界を彩る偉人たちの物語が広く国民に知られる中、なぜかその足跡を記した文献がほとんど存在しない第十世伊藤伝七は、経営者や歴史研究家などによって「知られざる偉人」として語り継がれ、今日まで歴史の表舞台に登場することはありませんでした。 しかし、その功績と貢献は、今なお国家の繁栄と企業の成長、人々の暮らしを支え続けており、多くの人々に感謝され、愛され続けています。

開拓者の魂が宿る伝七邸 偉人の別邸から要人御用達の迎賓館へ

第十世伊藤伝七の別邸として明治29年(1896年)に四日市市に移設された「伝七邸」。 約600坪の敷地に、2階建て木造建築と日本庭園を擁し、 威風堂々とした「玄関棟」と切妻造りの「さつき棟」は、国の登録有形文化財(建造物)となっています。

かつて偉人たちが集い、思いを巡らした近代産業発祥の拠点
である歴史的建造物は、明治39年(1906年)より、「料亭浜松茂」として皇室関係者や政財界、芸能界の有名人から愛される要人御用達の迎賓館的な存在となり、映画のロケ地になるなど四日市の繁栄の象徴であり続けました。

しかし、2017年、120年余繁栄し続けた聖地は存亡の危機を迎えます。
建物の老朽化と後継者不在のため、「料亭浜松茂」がその歴史の幕を閉じることになったのです。
四日市の象徴であり誇りであり続けた建造物が、その姿だけでなく、没後も地域を守り続けた第十世伊藤伝七の魂までもが失われることになったのです。

第十世伊藤伝七ゆかりの人々はもちろん、料亭に集う人々、かつてこの地を訪れ感銘を受けた人々、そして、この地を拠り所として生きる地域の人々、多くの方がその歴史の終焉を惜しみ、その存続と再生を願い想いを寄せました。

志を受け継ぐ者 聖地の再建へ―「11代目九鬼紋七」の挑戦

想像を絶する建造物の老朽化、未知の建築法、図面すらなくブラックボックス化した内部構造。すべての建築の専門家が「修復不能」と断言し、匙を投げた伝七邸の再生。
もはやその存続が風前の灯となった時、ひとりの男がこの無謀な事業への挑戦を宣言しました。

かつて織田信長の海戦部隊として活躍した九鬼水軍の末裔であり、三重紡績株式会社(のちの東洋紡)や関西鉄道の創立、四日市の公共事業に尽力した実業家の家系に生まれ、九鬼産業株式会社を受け継いだ、九鬼家の11代目九鬼紋七でした。
伊藤伝七と同じ時代に四日市の発展に尽力した同志でもある九鬼家の11代目九鬼紋七は、四日市繁栄の灯を消すことなく、伊藤伝七の足跡を風化させることなく次世代に継承するために、私財を投じて伝七邸の再建に乗り出したのです。

蘇る伝七邸 「伊藤伝七物語」第二章の幕開け

修復不能と言われた改修工事は困難を極め、幾度となく想定外の危機に見舞われながらも、絡まった糸を解き解くように粘り強く慎重に進められ、職人の技と知恵、支援者たちの尽力により奇跡的な再生を果たしました。そこには亡き第十世伊藤伝七の魂と伝七邸に宿る生命力の手助けがあったに違いありません。

四日市繁栄の象徴として、その姿を取り戻した伝七邸。しかし、11代目九鬼紋七が引き継いだものは、決して建造物そのものではなく、開拓者としての第十世伊藤伝七の志。地域の発展と生活者の幸福を願う熱い想いでした。

蘇った伝七邸は、第十世伊藤伝七の崇高な理念を受け継ぎ、伝統文化の継承と100年繁栄する地域社会を創造するために、「情報発信」「次世代教育」「コミュニケーション」の3つをコンセプトとした人と文化が交流する拠点として再始動。

生まれ故郷であり近代産業発祥の地である四郷の方々のご支援を受け、同じ思いを抱く多くの経済人・文化人・学生たちが産学官民の垣根や世代・国境の壁を越えて集結し、新たな交流と連携を生み出しています。封印された「伊藤伝七物語」は、11代目九鬼紋七と多くの支援者によって進められています。

伊藤伝七邸物語

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第十世伊藤伝七翁

嘉永5年(1852)生まれ。伝一郎と称し、小さい時から父9世について大矢知の代官所に出仕し、父の役職代理を務めるまでになった。
明治10年(1877)、意を決して堺紡績所へ入所し紡績に必要な全ての業務を学ぶ。その後、父とともに紡績所を起こし、川島紡績所を開業する。これが三重紡績の前身である。
父の死後、国立第一銀行頭取、東京商法会議所会頭の渋沢栄一氏の援助を受け、明治19年(1886)資本金22万円の三重紡績を起こす。三重紡績はそれまでは麻糸製で高価だった漁網を、初めて綿糸での製造に成功。また、インド綿の輸入を率先して行った。
三重紡績は次々に工場を拡大。さらには東海地域の多くの紡績所を買収し、大正3年(1914)、渋沢栄一の仲介により、資本規模において当時第3位である三重紡績と第4位の大阪紡績が合併し、東洋紡績となる。資本金は鐘紡、富士とほぼ互角だが、錘数では、44万本(鐘紡41万本、富士19万本)、織機は1万台(鐘紡5千台、富士千2百台)と他の二倍以上とズバ抜けて多かった。
日露戦争から第一次世界大戦までの間は、継続的な不況が続いていたが、大正3年に大戦が勃発すると、紡績業界も大好況に突入して、綿布の輸出が急増し、綿物の需要が爆発的に増加して黄金時代が現出した。
大正5年(1916)65歳で東洋紡の社長に就任し、古希に達した大正9年(1920)に辞任して後進に道を譲った。この間の東洋紡の躍進は利益が十倍の1,160万円になるなど、目を見張る躍進であった。

伊藤伝七は、本業の紡績業と同時に財界活動にも活躍。明治26年(1893)四日市商工会議所副会頭に選出、その他にも、伊藤メリヤス株式会社(トーヨーニットの前身)、四日市倉庫株式会社(日本トランスシティ株式会社の前身)、四日市製紙会社、五二会館(大日本ホテル)、三重軌道株式会社など、工業、保健、電鉄など幅広く歴任し、三重や中京財界の重鎮でもあった。

参考文献

「10世伊藤伝七の幅広い活動」吉村利夫(三重大学社会連携特任教授 三重県歴史編集委員)
「日本経営の巨人伝13―わが国紡績会の創始者・三重財界の重鎮の伊藤伝七」前坂俊之(静岡県立大学名誉教授)
「東洋紡の成立:三重紡・大阪紡の合併交渉」樋口勝利[関西大学経済論集,66(1):31-46]

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